そして、人生が始まる(映画『キッズ・リターン』評)

人生にっちもさっちも行かなくなるときが、良くある。

原因は分からない、自分の根底にある性格。状況、積み上げてきたものが全て間違っていたかのように感じる。実際間違っているのだろうが、何を正せばいいのかもはや分からない。

「もう、人生終わりだ。」

何度もそう考えた、しかし、そのたびに思い返されるセリフがある。

「バカヤロウまだ始まっちゃいねえよ。」

北野武監督の映画「キッズリターン」のラストで放たれるセリフだ。

主人公であるマサルとシンジの二人は劇中で全てを失う大挫折を経験する。作中彼らがする経験、そして成長全てがその挫折へと向かっていくのだ。彼らの何が間違って失敗したのだろうか、作中でも直接原因となる出来事は提示される。だがそれを回避すれば、彼らはそれぞれの世界で成功を収めることができたのだろうか。

私はNoだと思う、彼らは挫折するべくして挫折したのだ。漫画『ピンポン』に登場するスマイル風に言うならば「それは単に君に才能がなかっただけ」なのだろう。彼らが持っているパーソナリティでは、その世界に適応できなかった。それ以上でもそれ以下でもない。

 全てを失った彼らは自転車の二人乗りで、母校の校庭を駆ける。駆けながら、シンジは問いかける「なあ、俺たちもう終わっちまったのかな?」マサルは答える「バカヤロウまだ始まっちゃいねえよ」。

 この映画では、安易な救済は行われない。このセリフの直後、映画はエンドロールに突入する。彼らがこれからいく道は開かれてしまったのだ。青春映画において、可能性が開かれることは良きこととして描かれることが多い。しかしこの映画では、青春が開かれることはある種の絶望だ。この構造はアメリカン・ニューシネマを少し連想させる。

しかしだからこそ、このラストのセリフは胸を打つ。何が起こるかわからないのが人生だからだ。人生に伏線や構造などなく、失敗したらそこでおしまいかもしれない。しかし「バカヤロウまだ始まっちゃいねえ。」と思って生きることはできる。

私は青春映画とは「自分が自分であることを誇る。」言葉を見つけるまでの話だと思っている。そういう意味では、彼らは自分自身を形容する言葉を終ぞ見つけられず、バッドエンドを迎えたといってもいいかもしれない。しかし、その後も人生は続いていくのだ。人生を賭けた大失敗を、「バカヤロウまだ始まっちゃいねえよ。」と切り捨てる。その生き様こそが、私たちに勇気をくれるのだろう。

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